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「若冲さん」 1 改    20211022

「できれば、したくないのですが……」
 か弱い、けれど極細の針金入りのごとき芯ある声を発したのは、若い男性のほうだった。

 彼はこのあと意に反して四代目伊藤源左衛門を襲名させられ、大店「桝源」を継ぐこととなる人物。さらなるのちには臨済宗に帰依して若冲居士を名乗り、その伊藤若冲という仏名は二百年以上を隔てた世で、人気絵師として頻々と人々の話頭に上ることとなる。

 けれどいまの彼には、そんな片鱗もない。ただ覇気のない受け応えが、病床にある父・三代目伊藤源左衛門の怒りを買うばかり。
「まだ言うか、この期に及んで! お前だけは、わからんままだ……」

 語調は激しいが、こちらの声も弱々しく張りがない。それもそのはず、父親のほうは病状がかなり進行し、すでに余命幾ばくもない。
 この時点で四二歳。くたばり果てるには早いように思えるが、先代の早逝で十代の頃より大店旦那となって以来、働きづめで店の看板と一族の暮らしを守ってきたことを考えれば、ここらで力尽きてしまうのも無理からぬところか。
「桝源」の「源左衛門」という名は彼にとって、生涯を賭して築き上げたもの。それを自身の今際の際、いざ長男に渡そうとすれば、できればやりたくないと言う。父としての苦々しさは、いかばかりか。落胆の余りその場で生命まで落としたとて不思議じゃない。

 それなのに当の息子のほうは、枕元で少々所在なさげにしてはいるものの、恐縮しきっているふうでもない。相手を困らせるつもりはなく、ただ正直に本音を吐露したまでと言わんばかりに泰然としている。
「やはり変わらぬか、我が最期の言葉として投げかけても……」
 床に就いている父親は、呆然と息子の顔を眺めながら嘆息しひとりごちた。

 幼い頃からこの長男は、大人を困らせるような我儘や腕白など一切せず手もかからなかった。ただ、一貫して自発の気がない。何事も面倒そうにする。
 生まれたときから食うに困らず、何不自由なく生活させてきたのがいけないのかとあえて厳しく接しても、何を欲しがるわけでもないから変化も効果もない。

 そのうち彼は何を訊かれても、どんなに発破をかけられても、たいていはお決まりの台詞を繰り返すばかりになっていった
「できれば、したくないのですが……」
 と。

 そんな調子だから、家業にもいっこう興味を示さないのは当然のこと。さすがにいざ家督を継ぐときとなったらば、長男の責任を感じて翻意するかと一縷の望みを持ってはいたが、それもいま挫かれた。
 父・三代目源左衛門は息子の顔から目を逸らし、背後に広がる坪庭の植栽を眺め渡した。

 小さい鳥が数羽、よく整えられた樹枝に舞い降りて、葉群れを微かに揺らしていた。ここは狭い庭だが、広大な御所のすぐ南だから鳥の類は豊富である。
 桝源は京都高倉錦小路、野菜といわず魚といわず由緒ある問屋や小売が軒を連ねる通りの、表玄関にあたる入口脇角地にある。青物問屋としては小路内でも一等名が通っている店だ。
 父・三代目伊藤源左衛門は長屋の最奥部にあたる部屋で伏せっているが、小路に面した商い場の賑やかさは長い床板を伝って感じ取れた。

 京の都の台所を預かるのが我らの生業。扱うものが御所へ運ばれることだってしばしばある。貴人や武家の身分と比べればともかく、町衆としてはこれ以上にやり甲斐ある仕事もなかなかあるまいに。
「それをも継ぎたくもないと、お前は言う。ならば商売もせずにいてその有り余った時間、いったい何に費やしたいのだ?」
 幾度も為してきた問答ゆえ応えはわかりきっていたが、父は為念、息子に尋ねてみた。
「まあ、絵なぞ……」
 やはり、か。なんの足しにもならんあの下手くそな絵にいまだ執心するか、この馬鹿息子は!

 もうよい、下がれとだけ伝えて父は、眼を瞑った。
 だが馬鹿息子のほうは動こうともしない。彼の視線はすでに庭で舞う小鳥の羽根の内側の微妙な色合いに強く惹きつけられており、視覚以外の五感は閉じられていた。父の言葉は息子の耳に届かず、行き場を失い彷徨うばかりだった。

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