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「セールスマンの死」3   20211001

 老医者に礼を述べ送り出してから廊下へ上がり、リビングのドアを開けた。はたして、痩せこけた父の顔が目に飛び込んできた。

 入れ歯を外した口元はすっかり萎み切っている。薄く開いた両眼にむろん生気はない。呻きか呼気かわからぬ荒い音だけがやたら大きく響く。
 ソファもテレビも運び出されたリビングの中央に、大きいベッドがどんと設られてあった。看護しやすいよう仰臥面が人の胸元に迫るほど高く調整してある。そこに横たわる父の肢体は一本の枯れ枝みたいだけど、眼前で見せつけられるせいで存在感がある。

 枕元に置いた丸椅子に力なく座る母親に適当な言葉をかけてから、父の顔を改めて覗き込む。皮膚に張りや厚みはなく、頭骨のかたちが露わになっている。胡麻塩色の無精髭の一本ずつが、ずいぶん太く目立って見える。
 まさに死相だ。呼吸に合わせ胸元が上下していなければ、「ご遺体です」と言われても納得しそう。
 これでいまは眠っている状態だと、母が言う。一日の大半は夢うつつ状態で、水を所望したり体勢を変えたいときだけ意識が戻る。次にいつそうなるかはわからない。

 思ったよりも、悪いな。そう思ったが、実際に様子を見ればなぜか安心してしまう。務めは果たした、という勝手な納得感に満たされる。
 あとは久々の実家でのんびり一泊していくか、との気分になった。夕飯は最寄りの鮨屋で出前をと。新鮮とも言えぬネタが妙に生々しく感じられて、すこし気持ちが悪くなった。
 風呂をつかい空調が効いた「病室」で涼んでいると、ベッドで気配が動いた。父が目覚めていた。

 息子に気づいた父は、
「ああ……。どうしただね、そんな。わざわざ。いいのに」
 と憎まれ口を叩いた。八十余年も培われてきた無口でガサツで斜に構える性向は、今際の際に治るはずもない。
 名古屋に仕事があったついでに寄ったのだ、と話を合わせてやる。
「そうか……。最近ちょっと……。よう起き上がれんになって……」
 たまたま具合が悪いような口ぶり。じきよくなるだろうと伝えると、
「よくなるかね……」
 何かを期待する声音だった。よくなる気持ちがまだあるのかと驚いた。
 さらに言葉が継がれるかと口元を眺めていたら、息が深くなりまぶたも降りてきた。瞳の中にかすかに点いた灯が今はまた消えかけている。吐息の中に、 
「まあ……ありがとう……。じゃあに」
 との言葉が混じったかと思うと、あとはまた荒い呼吸音が室内に響くだけになった。


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