「若冲さん」 33 20211123
店の者が市場の窮状を切々と訴えつつ歩くので、若冲はつい同行するかたちになった。
色とりどりの魚や青物が店先に並ぶ錦の本通りを抜けて、いつのまにか桝源の前へ。
「五代目は奥の間におられるはず。先代ひとつ、店に助言を授けていってくださいまし」
と案内されて若冲は久方ぶりに、裏口ではなく店の側から実家の敷居をまたいだ。
とんと寄り付かなかった家に、ふいに足を踏み入れる羽目になった。
若冲の内側がいま、空っぽだったからだろう。
長年打ち込んだ画を寄進し、あとの時間は完全なる余生と悟った矢先の若冲である。
店に何ら貢献も協力もせず弟へ家督を譲った自分の立場など、すっかり忘れていた。
本来感じるべきうしろめたさは、とっさに発動しなかったのだった。
流されるまま店の奥へと通路を進むと、広間の襖が開いて弟と出くわした。
気の利いた言葉でもかけてやれるといいが、若冲にそんな機転を望むべくもなし。
「お」と声を漏らして立ちすくむばかり。
五代目当主の地位が板についてきた弟のほうが、如才なく屈託ない声を上げた。
やあ、あにさん。どういう風の吹き回しだい?
続いて五代目は勢いよく口を開き何か言いかけたが、声になる手前でよしてしまった。
そうして、
「いやまあ、元気そうで何より。意外にさっぱりした顔してるじゃないですか」
無難な挨拶を述べた。
本当はいま五代目は、市場の行く末のことで頭がいっぱいだ。
誰でもいいから話を聞いてもらいたい気分。が、よりによってこの兄では……。
張り合いがないにも程がある。相談しても無益であろう。
そう思い言を引っ込めたのを、まったく隠しおおせていない五代目の表情だった。