「若冲さん」 11 20211101
その日から四代目は紙に墨をのせ、鶏らしきかたちが浮かんできたかと思えばそれを反故にして、また新しい紙を取り出してきて墨をのせ、ということを延々と続けるようになった。
文字通りほかに脇目もふらず、日々、紙を浪費しまくった。しかも彼は、いい紙を惜しげなく使う。そこはさすが京都錦通りの大店である。四代目が自由に使っていい金子は豊富にあって、紙を買い込んでくることくらいわけもない。
伊藤家としては、当主が商売にまったく精を出さぬはいまさらどうしようもないとして、これで派手に遊び歩かれたりしては体面が悪すぎるし、財政上も痛手である。
それに比べれば、自室で上等な紙と戯れてくれているほうが数倍都合がいい。弟たちは長兄の紙との戯れを黙認し、店の金庫番は言われるがまま画材を購う金を用立てた。
ただし当主の体たらくへの積年の不満が消える訳ではない。自室から出ず家の者と顔を合わせようともしない四代目に代わって、何彼とあいだを取り持つことになるユウに、皆は言葉をぶつけた。
「お殿さんの様子はどうだ? もういいかげん根が生えて、畳と身体がくっついとるか」
「渡した金の総額は帳簿にしかと付けてある。いずれ働きを見せて返す目算はあるんだろうな」
嫌味を言われるたびユウは、長らく京で仕えてもどうも垢抜けぬ風貌を利用して、ことさら素朴な使用人であることを強調してはい……、はい申し訳ありません……、と短く返事をするようにしていた。
実際のところユウは、周りがチクチクと責めてくることなど、欠片も気に留めていなかった。ただひとつ気になるのは、四代目が今度は紙と筆しか眼中になくなってしまったことだ。これでは凝視する対象が、庭の鶏から紙の上の鶏に移っただけではないか。
画材を揃えて絵を描き始めた当初は、当主様がいよいよ新しい段階へ進むのだ、おこがましいのを承知で言えば成長なさった……とうれしかったものだが、これでは何ら変わらない。
近頃じゃ食事やお茶の用意ができたと告げても、
「できれば、したくないんだが……」
と筆先から眼も離さずつぶやくばかり。
ユウは落胆するやら、しかし当主様が変わらないご様子ならそれが何よりかと思い直すやら複雑な気分で、それでもめげず四代目に日々仕えた。
そうして四代目の「紙と筆のみ凝視する時代」は、二年余りも続いた。